FROM:サイトウパピコ
青森県津軽地方の田舎町
平成28年11月寅の日、寅の刻

 

PAPICOです。

最近よく、「サイトウパピコ」って一体何なの、アイス?
人の名前らしいけど、何?、ふざけてるの、どういう人?
という話題を、よく耳にするような気がしました。笑

実際ラッキータイガーのサイトに来られた方の検索キーワード第1位は、

「サイトウパピコ」

なのでした。

そこで今日は、私サイトウパピコが、一体どんな人間なのか、
どこへ行こうとしているのかを、
包み隠さず、あなたにお話したいと思います。
そんなの、全然興味ないよという方は、
もちろんスルーして下さって結構です(笑)。

じゃ、はじめますね。

 

 

2015年3月それは突然やって来ました。

メッセンジャーで、ビジネスの先生として
手本にしていた
平さんからのメッセージでした。
その頃は面識もありません。

「X-POWERの私の投稿をシェアして下さい。」
と、

当時まだ、平さんの凄さを、よく理解していなかったのですが、
すぐに

「承知いたしました。これからします。」
と、ご返事をさせていただきました。

その時私は、ただ平さんの投稿をシェアするのではなく、
自分にしかできない、
私らしいやり方でシェアできないかな、と考えました。
そして、イラスト付きで紹介することを思い付いたのです。

仙人さん(X-POWERの開発者)のイメージを、
「虎」で表現しようと思い、
虎の絵を描いて、X-POWERを紹介しました。

X-POWERの虎の絵



紹介してくれた人には、特典として「SHADOW(シャドー)」という虎の絵をプレゼントしていただける、
というお話も伺っていました。
そういう背景もあって、「虎」を素材に描いてみよう、と思ったのかもしれません。

 

 


そうしたら、その1ヶ月後くらいに、我が家にインプロビックさんから、
やたら馬鹿でかい荷物が届きました。

 

開けてみると、なんと額に入った「SHADOW」の絵だったのです。
あまりのインパクトで、とても衝撃的だったのを
今でも鮮明に覚えています。

そして同時に、平さんの思いが嬉しかったです。

私の他にも沢山の方がシェアしていましたが、
額入りの絵を頂いた方は、
あまりいら っしゃらないのでは、
と思っています。

これはちゃんと、ご恩をお返ししなければと、思いました。
いただいた以上の、恩返しをいつか絶対にするんだと、
この時密かに、心に決めました。

 

ちょーデカイ、シャドーの虎の絵

 

 
実は、私が起業した日は、その1ヶ月後の、2015年4月です。
この頃はまだ、保育士との兼業でした。

 

そしてその日は、平先生と初めてお会いした日でもあります。
(某スクールの、卒業式でした。私は生徒ではないのですが、
なぜかスタッフとして、
お手伝いを志願して、
潜入?させていただきました。 )

そう思うと、このときすでに、
私はラッキータイガーと出会い、
平先生に背中を押してもらい、
アーティストとしての第一歩を踏み出していたんですね。

 

それから1年5ヶ月後の今年の9月、

先生の主催の「千客万来実践会前夜祭」にも、
そうそうたるメンバーの中で、

ゲストに呼んでいただけるまでになりました。
もちろん、私なんて、まだまだですが・・・。

これって全ては、ラッキータイガーが導いてくれたラッキーだったと、
今、つくづくそう思っています。

本当に、ラッキータイガー様々なんですね。

 

今から、その話をします。

今まで、誰にも言わなかった「秘密」も公開します。
私のことなんて、知りたいのかどうかわからないですが、
しかも
少し長くなります。

興味のある方だけ、この先を読んで下さい。

じゃ、はじめますね。

 

 

私、サイトウパピコ(もちろん本名じゃ無いです。笑)は、

本州最北の青森県の、その中でも更に田舎の町で生まれました。
記憶はありませんが、 生まれた時は4150グラムもあったそうです。

 

4150グラムの頃


思えばこの時からすでに、身長198センチ?への
可能性を秘めていたと言えます。

幼少期は大自然の中でのびのびとすごし、
感性を育んでいきました。(多分)

農家を営む両親のもとで、愛情たっぷり注がれ、
決して裕福ではありませんでしたが、

素朴な生活を送っていました。

性格は、どちらかというと大人しく、一人遊びがじょうずなタイプ。
とくに、お絵かきをしたり、折り紙をするのが好きな子供でした。

好き嫌いが多かったのですが、生後しばらくは、顔がまん丸です。
雪の中で育ちました。
おかげでかなりの寒がりです。

父の手作り、リンゴの木のブランコ

 

 

サービスショッの水着姿

小学校の6年間は、同級生がわずかに3人という、
山の分校に通っていました。

今も、色が白いねと、言われることがありますが、
それは雪のせいかも知れません。

雪のない、暖かい街には、ついつい憧れてしまいます。

分校のクラス編成は基本的には、複式学級と言って
複数の学年を一人の先生が見る方式です。

いない学年もありました。

 

たった4人だから、自慢にもならないのですが、
成績は学年で1番でした。

なので、6年生のときは、児童会の会長も務めました。
この頃は、優等生だったんです。
同級生4人だけど(笑)

 

分校の同級生たちと

 

 

習字の先生だった祖父の部屋で

 


祖父が習字の先生だったということもあり、
3歳から習字を習っていました。

(と言っても、お絵描き感覚だったと思います。)
小学校時代は習字で何度か賞を取ったことがあります。

今でも習字はちょっと得意な方かな。

小さい頃から、絵を描くのは大好きだったので、
毎日ひたすら、何かの絵を
描いていました。

絵も、習字同様、小学時代は何度か入選したのを覚えています。
みんなの眼の前で表彰されるのも嬉しかったけど、
景品で図書券をもらえるのが、
ほんとに嬉しかったかも。
そんな経験が、ますます絵を描くことを
好きにさせてくれたんだと思います。

また、本が大好きな小学生でした。
何度も言いますが、田舎なので、近くに
本屋さんとかショッピングモールなんてありません。

なのでいつも、学校の図書室で本を読んでいました。
卒業する前には、図書室の本は、
全部読み切ってしまったというぐらい、

とにかく本が好きでした。
何しろ、優等生でしたから(この頃は)。

(※優等生=まじめ)



その優等生が挫折を味わうのは、間もなくやって来ます。
中学校からは、町の中学に通うことになり、
クラスメイトは一気に30人になり、

同級生は100人を超えることになりました。

私なんか、優等生どころか、もう存在そのものが、
目立たなくなっていたのです。

その頃はまだ、身長も高くなかったので、
それまでには見たこともないような、不良っぽい人もたくさんいて、
どんどん内に籠もるようになりました。

ちなみに、成績は良かったんですよ、本当に。(笑)
だいたい学年で120人中10位くらいにはいたかな?
ですが、人間関係を築くところで かなりの挫折を感じました。

同じクラスに、気を許せる友人がいなかったので、
本当に学校行くのはつまらなかったし、

時には途中で引き返そうかと思うぐらい、辛い時もありました。

 

そんな中でも少しづつ、気の合う友達は出来ました。
絵を描くのが好きな友人たちです。

私たちは、おとなしく、目立たないグループだったと思います。
周りから見れば、明らかに「おたく」な集団でした。

そんな中学時代、 私にとって輝かしい出来事といえば、
やっぱり「絵を描く」ことで得た、
成功体験です。

それは、そんな友人達と同人誌を作って、
コミケ(コミックマーケット)で売った経験です。

中学2年生の時行ったコミケでは、同人誌の他に、
自作のイラストも描いて売っていたのですが、
初めて自分の描いた絵が売れたときの嬉しさは、
今でも忘れられません。

進研○ミのチャレンジランドに、投稿した漫画が採用され、
雑誌に掲載されたのも、中学三年生の時でした。
これもかなり、うれしかったです。

中学生時代の輝かしい記録

 

高校は地元の進学校に進みました。

進学校というだけあって、ヘンな不良ぽい人は居なくて、
この環境はかなり気に入ってました。
ですが、勉強ではすぐに落ちこぼれ(笑)

今度は絵を描くより、気の合うクラスメイトや、
部活(放送部でした。)の友人と一緒に過ごすことが多くなりました。

クラスの中では「絵の上手い人」という立ち位置にいて、
文化祭の時は制作物を作る時に頼られることが多かったです。

 

(当時文化祭で、クラスで作ったチョコボールのハリボテに
担任の先生の似顔絵を描き、
「似てる!」と好評だったのを
思い出します。)

 

評判になったチョコボールのハリボテ

 

 

 
毎日のほほんと過ごしていた高校時代。

美大に行く、という友人の発言に、ドキッとして、
「あ、それ、私も行きたい!」
と思いましたが、その時すでに高校3年生の夏でした。

色々手遅れなことが多く、結局美大は諦めて、
子供の頃からの、憧れだった小学校の先生か、
保育士になることを選択します。

センター試験で英語の成績が飛び抜けて悪く、
(英語は今でもホントに苦手、笑)

結局、私立の保育科のある短大に行くことになりました。

 

 

そして念願の保育士に


保育士になってからも、
やはり「制作の上手い先生」という立ち位置で、

子供達に絵を描かせたり、何か作らせたりするのはもちろん、
作品展や発表会の小道具、大道具、衣装などを作るのは、
大好きだったし、得意なことの一つでした。

また絵本が大好きで、いつか自分でも
絵本を出したい、と思っていました。

家には300冊以上の絵本があります。
19年間の保育士生活の中で、
ずっと続けてきた「絵を描く」ということ。

それが今の仕事にちゃんと生かされていることを感じます。
そして同時に、保育士時代は、何より心を磨かせてもらいました。

たくさんの子供達、保護者、同僚たちとの関わりの中で、

「相手を深く理解する」
「相手が本当に伝えたがっていることをしっかり聴きだす」

という習慣が身についていったように思っています。

 

小さな子供ですら、自我が芽生えると、周りに気を使ったり、
理解してもらえない悲しさから、
思いとは裏腹な言動をとるということを教えられました。

つまり、大人はこれが積み重なるわけですから、
もっと裏腹な態度をとったり、

素直に自分を表現しなくなる人が多いわけです。

その事を理解できるようになってから、
人との関わり方が少しずつ変わっていきました。

 

 



絵は、私にとってとても大切なもの、

大好きだし、私の人生そのものと言っても過言ではありません。

ときには私を助けてくれるお守りになったり、
尊敬する人に近づくための武器になったりします。

保育士の19年間は、苦労も摩擦も山ほどありましたが、
私にとってはかけがえのない、大切な時間、
今の私を育ててくれた、原点のような場所なのです。

 

実は「パピコ」というペンネームも、
子供の発言から思いついたものです。

1歳児クラスを担任していた時に、 一人の男の子が、
「さきこせんせい」(本名、笑)を発音できず、
「ぱぴこせんせい」と、
私を呼んでいたことがあったんです。

超可愛くて、 その呼び名はすごく気に入っていました。
(アイスの名前じゃないんです。)

保育士をしながら、師匠と決めた平さんから学んでいる時、
平さんが何かのときにおっしゃった言葉、

「誰かに雇われて、働かされてる場合じゃない!!
自分のやりたいことをやりたいときにやれる人生にしよう。
そうなるためには、サラリーマンなんかやめよう。
私は絶対、起業をすすめる」

この言葉が、私の背中を押してくれました。
もしかしたら、私にも出来るのかも、

 

そして自分の中にあった、本当にやりたかった仕事に、
チャレンジしたいという思いがどんどん
強くなって行きました。

そしてそんな頃、ラッキータイガーにも出会ったのです。

 

 



アーティストいう世界で起業したと言っても、
もちろん順風満帆て、わけじゃありません。

そもそも世間の人は、私なんか知らないし、
田舎者のアラフォーが、独立したからと言って、
じゃんじゃん仕事をいただけるわけでもありません。

明日、仕事がなくなるかもしれない。
失敗して、仕事がキャンセルになるかもしれない。
仕事が遅くて、お客様に迷惑をかけるかも、
そんな恐怖と、毎日戦っています。

 

でも、
19年勤め続けた保育園を退職し、
アーティストいう初めての世界で起業した今、

「お客様の思いを汲みたい」
「本当の気持ちに寄り添いたい」
「許される限り、理解したい」

そう思って仕事をしています。
(できているかは別として)

お客様が本当になりたい自分になるために、
私のデザインが、そのお手伝いができたらいいな、
と、思っています。

私自身が、仕事に対して、
そうあることの大切さ、必要性を感じているのは、
保育士時代に積み上げた、
土台のようなものがあったからだと思っています。

保育士時代は、小さな子ども達に、たくさん許してもらいました。
たくさん愛してもらいました。

 

子供を心から理解し、許し、愛することができて、
私は保育士を卒業したと思っています。

この経験は、私だけの宝で、
もしラッキータイガーが不思議な力を持っているとしたら、
私のそういう思いがどこかにあるからかもしれません。

 

今も、
仕事でのミスや失敗を、たくさん許してもらっています。
許してもらうたびに、励ましてもらうたびに、
私もそうありたいって思っています。

正直うまくいくことばかりではなくて。
慣れないチャレンジは、居心地も悪く、

落ち込む事もあります。

でも私は、いつも自分を励まして、自分に言い聞かせて、
何度だって立ち上がり、
いつだって前を見て歩き続けようって思っています。

問題や、チャレンジは、前に進んでいるからこそ
起こるって事を知っているから。

 
問題やチャレンジは、その時は辛くても、
見方を変えれば必ずそこには学びがあって、

そこに向き合う勇気さえあれば、
感謝の気持ちが芽生える事を知っているから。

だから私は
いい事も、そうでない事も、
いろんな角度から見るようにしています。

 

そうすると、
「今の自分はなんてラッキーなんだ」って思えるんです。
だから、人生には、

 

『ラッキーじゃない事なんて、何もない』

 

って、思えるようになりました。

これまでも、これからも、
ラッキータイガーは、私の人生をそんな風に導いてくれて、
実は、私こそが、ラッキータイガーの恩恵を一番受けてるんだなと
自覚しています。

本当に、多くの方に支持していただいて、
こんなの買ってくれるのかな、売れないだろうなと、
思いながら苦し紛れでスタートしたあの日の感動は、
今でも、忘れられません。

 

 

『ラッキーじゃない事なんて、何もない』

ラッキータイガーを手にしたあなたも、そう思っていただけるように、
ラッキータイガーが背中を押したり、
寄り添ってあげられたらいいなって思っています。

そして今日も、あなたに向けて、
せっせとラッキータイガーを送り続けます。

 

 


この長い手紙をここまで読んでいただいたあなたに、
最後にお伝えしたいことがあります。

それは、私の野望を応援してもらえたら嬉しいなってことです。

 

私の野望とは、

自分の子供に
自分の子孫に
私と縁があった子供に
これから出会う子供たちに
そして、あなたにも、

 

絵を描くことを、もっともっと好きになってもらいたい、
ということ。

 

デザインの可能性をもっと感じてもらうために。
デザインの価値をもっと感じてもらうために。
デザインへのコンプレックスを無くし、
デザインの価値を高めていく。

デザインの価値を広めていく。

そのために《デザインで挑戦し続けること》が、
これからも私がやりたいことであり、
私の使命だと思っています。

 

これからも、そこを目指して歩んでいきたいと、
固く、心に決めています。

 

そして、 私の通ってきた道を振り返ってみて
いくつになっても、子育てをしながらでも、
自分の夢とは全く違う仕事をしていても、

『叶わない夢はないんだ』

と思って、感じて、行動してくれる人が
一人でもいてくれたら

最高に幸せだと思っています。

そんな人たちと、つながって、
がんばって行きたいと願っています。

ラッキータイガーでつながるあなたとの「ご縁」は、
私にとってのかけがえのない宝物なので、
これからも大切にしていきたいと、
常に心の支えとなっていることを最後にお伝えしたかったです。

 

誰かが言ってくれました。

「ラッキータイガーのお客様って、ホントにいい人ばっかりですね」

私もそう思ってます。
そのことを、一番実感じているのが私です。

 

これからも、いっしょに頑張っていけたら、うれしいです。

心から感謝をこめて